登山
2020年11月03日(火)
岩屋山・舞岳
2020年10月11日に歩く。
10月の朝もなかなかに寒い。バイクで大村から長崎まで走ると指先が冷えてジンジンしてくる。登山口に到着するまでが大変だ。それでもこれからどんどん寒くなってくるだろうから、今のうちに自宅から出来るだけ遠い山に登っておこうと思っているのだ。
さて今日登ろうと思っている岩屋山と舞岳は長崎市の北西部にある山だ、岩屋山は古くから信仰の山として崇められ、長崎七高山のひとつでもある。
この日もいつものガイドブックを参考にして、虹が丘町からのコースを使って岩屋山と舞岳を縦走する。
その後は式見ダムへ下山し、市街地をあるいて登山口へ戻ったが、街を使って元の場所に戻るのはあまりオススメはしない。
ガイドブックでは『虹が丘中央バス停』がスタート地点になっている、私はバイクで登山口へ直接乗り付けた。
登山口は岩屋神社の参道脇から入る。ここには神社の駐車場などもある(神社の催しが無い時に限って利用して良いとある)
神社の前から左の小道へ入る、ここが登山口だ。
周辺にはたくさんの車が停まっているし、何人も登山者の姿が見られる。
よく登られている山のようである。
登山口から、小径をたどって歩くと、まっすぐに伸びた杉の林である。
すっと伸びた立ち姿と明るい雰囲気で、意外にこういう雰囲気の場所は多くない。すこし嬉しい気持ちになった。
途中は何人かの下山者とすれ違う。岩屋山にだけ登って引き返してきたのだろうか?
すれ違いざまに挨拶を交わすと、みなニコニコしているのだった。
途中は何箇所か分岐があり、山中を縦横無尽に作業道などが走っている事がわかる。
先を歩いている壮年夫婦を後ろから若干強引に追い抜いて、息をはずませながら登ってゆく。
ここから急斜面になるので、適度に足を止めながら休み休み登る。
途中から山道は何度も折り返しながら、高度をゆっくりと上げ山頂付近へ出る。
岩屋山の山頂は広場のようになっており、中央には大権限の石祠が鎮座している、ベンチや各種の案内板が設置されている。
なんとなくほっこりとした雰囲気で、ゆっくりとくつろぐには最適の場所だと思う。
また岩屋山から、目の前に広がる景色もなかなか良い。
その昔、この周辺はひとつの大きい台地上の火山だったそうだ。
長い年月をかけて侵食し、今のような姿になったのだと言う。
そういう時間と空間のスケールの大きさを感じる場所である。
ひとしきり展望を楽しんだ後は次の山へと縦走する。
岩屋山の山頂からは、防火帯に沿って最初は緩やかに下って行く。
岩屋山から舞岳への下り、途中は急な下り坂が何箇所かある。
僕は下るだけだが、登ってくる人は大変だ。
岩山から十分に高度を下げて、舞岳との鞍部から舞岳へ向けて登り返す、ここもなかなかの急坂だ。
舞岳は古くは山城だったそうだが、この坂を登っての城攻めは厳しそうである。
城を攻める足軽の気分になって登ってみると、上から飛んでくる弓や長槍に刺されて死ぬ自分が容易に想像できて、心の中で苦笑いするしかない。
戦国の世に生まれなくてよかったな・・と愚にもつかない事を考えた所で、プッと吹き出してしまった(笑)
舞岳の山頂からは、視野は狭くなるが木々の間から遠くを眺める事もできた。
硫黄島大橋と硫黄島が見える。硫黄島の背後には高島や端島(軍艦島)がある。
あまり風光明媚とは言えない眺望ではあるが、何も無いよりはずっと良い。
舞岳城は、福田忠兼に築城された山城で(福田氏は大村氏の家臣であった)息子の兼親は大村純忠の娘を妻に迎えた。その年にこの山城は築城されたそう。
山頂には誰もいなかったので、地べたに座ってラーメンを作って食った。
具はソーセージと、長ネギ・キクラゲだ。
なぜ山でラーメンを食うかというと、いろんな理由があるが、もっぱら安くあがるからだ。
この後は舞岳から下り、式見ダム方面へ下った。
最初は舞岳から岩屋山へピストン山行しようかと思ったのだが、街を歩いて帰ろうと気まぐれに思ったのだが、これは失敗だったかもしれない。
式見ダムを通過して、街をとおって岩屋山の登山口へ向かうのは無理がありすぎた。
そしてバイクを回収して、家路へとついた。
岩屋山は展望も良く、適度に登りがいのある山だった。
舞岳も静かな場所でなかなか良かったと思う。
登山
2019年05月19日(日)
八郎岳、小八郎岳を歩く
2019/3/24
山行記録を書いてなかったものがあるので書く事にする。
ちょっと前に長崎市最高峰の八郎岳を歩いてきた、八郎岳は九州100名山の一つなんだとか。
八郎岳は長崎半島に位置し、長崎市の最高峰(標高590m)である。
平安時代の末期に九州で勢力を振るった鎮西八郎為朝が山頂から矢を射たという伝説にその由来があるとされ、麓には『落矢』という地名も残っているのだそう。
いつものようにバイクで走る。平山バス停を目印にして道を入ると墓地が見えてくる。その手前に駐車場があるので停めておく。
九州百名山に数えられるとの事だが、道中は特筆すべき所もなく、典型的低山歩きの趣きである。
山頂からの見晴らしは素晴らしい。ほとんど何も遮るものが無く、長崎半島を取り囲む海がよく見える。長崎市、三菱造船所の100万トンドッグや、高島や端島(軍艦島)もよく見える。
山頂にある8角形の石柱が『天測点』だ。
コンクリートの台座は重い測量機器を乗せるために作られている。
しばらく山頂で休んでいたが、人々が次々に登ってきては去ってゆく。
人気の山なのだろう。
岩がちの山頂には特に展望もなく、やや面白さにかける場所だった。
山渓のガイドブックにも書いてあるが、ここは一面に蕨が生えている。
ただし土が痩せているのか、育成が悪く元気はない。
蕨は鹿の忌避植物であり食べない、だから鹿がいる山は蕨が異常に増える。
里山の貴重な植物を守るには鹿を適切な数になるよう“調整”しなければならない。
下山してからは、一直線に道をくだってバイクを回収して帰路へとつく。
バイクに乗ろうとしていたら地元の人に話しかけられて、八郎岳と烏帽子岩の縦走コースもあると聞く、いつか歩いてみようと思いながら帰った。
登山
2019年04月10日(水)
健山・烽火山・武功山 長崎市を散策
2019/3/9
長崎市東部に位置し、山頂に異国船発見を通報するための施設『烽火台』がある烽火山とその周辺にある、健山・武功山を歩いてきた。
ガイドブックによれば、3月には『アオモジ』の花を楽しめるという事で狙ってゆく。
いつものガイドブックでは、路面電車の諏訪神社前電停で降り・・と書いているが、僕はバイクでそのまま片淵近隣公園へ向かった。
登山口から最後まで、踏み跡は明瞭で迷う事は無いが、どんな登山でも地図とコンパスは必須。
烽火山の山頂には烽火台がある。異国船の侵攻を近隣諸国に知らせるため、寛永15年(1638)に造られ、その後 文化12年(1815)に改築。と書いてあるが、今のものは復元されたもののはずだ(どこかで見た)
この後、下山するのだが、ガイドブックでは蛍茶屋公園を経由しての下山だが、道を見落としていたのか、違う場所へと出る(詳しくは先に添付した地図を参照のこと)
長崎市に明るくないため、ここがどこかよく分かってないのだが、どうやら路面電車の最終駅の『蛍茶屋』のようだ(駅の名前変わってるかも)
下山してからは、街中を地味に歩いて、片淵近隣公園へ向かいバイクを回収した。
このような感じでこの旅を終える。
登山
2018年12月21日(金)
矢上普賢岳、行仙岳を巡る
2018/10/28
長崎市の東端に位置し、古くから信仰の山として登られてきたという、『矢上普賢岳』とその隣にある『行仙岳』で遊んできたので山行記録をつける。
普賢岳というと島原半島の普賢岳を思い浮かべるが、矢上普賢岳にも普賢神社があり、普賢菩薩や涅槃像などを祀っている、との事。
いつものガイドブックを参考にして訪ねてみた。国道251号線から大きな鳥居が目印で、そこから歩いて登り始めるそうだが、当日僕はバイクだったので鳥居をバイクでくぐり坂を登って霊園の駐車場に停めた。
ここから山に入ろうと思うのだが、ガイドブックを見てもよくわからない。
車道をずっと登って行くと砂防ダムのようなものがあり階段もあるが、なにか違う気がして引き返す。ちょうど地元の人がいたので話しを伺うと太陽光パネルの脇から登り始めるのだとか。
麓の鳥居から登山口までの間、道標らしい道標は無い、ガイドブックにも坂を登ると登山口がある、としか書いてなくてわかりにくかった。
さっそく山へ入って行く。
背の低い鳥居をくぐるとそこからすぐに山に入る。
この階段は山頂付近まで続き、全部で1,809段あるらしい。
階段を登り始めるとすぐに2つめの鳥居もある。
ちなみにこの季節、参道にはどんぐりの実がよく落ちている。
食べられる実を拾い集め、少しだけ持って帰る。
中身を割りフライパンで炙って、バターや塩で味付けして楽しむ。
腹いっぱいにはならないが、ちょっとした秋を感じる事ができる。
この場所は山の麓にある集落『侍石』から続く車道と普賢神社の表参道が合流する場所だ。普賢神社へ登る前に、幸授屋稲荷・白龍神を見て行く。
人気(ひとけ)は無かったが、掃除も行き届いており、よく管理されている、という印象を持った。とても大切にされている様だ。
観光が終わったら、道を戻り再び山へ入って行く。
登っていると、何人かの人に追い抜かれた。皆さん普段着のようす。近所の人が朝の運動で登っているのかもしれない。
ガイドブックには書いてないコースだが、進んで見る事にした。
倒木をまたいで進むと、ふたたび道を感じるようになり、道をトレースしつつ進む、コンパスでは南を指し、道は一度下ってゆき、小さく登りかえして、標高270m(推定)の小ピークへ到着。
この周辺、あまり写真を撮影してなかったのだが、造成されてキレイに整地されている。そこの場所は『戸石城』の城跡でもある。
涅槃像は基本的には頭を北、顔を西に向けていて、いわゆる北枕(死者を寝かせる時の作法)はこれが由来なのだという。
なんとなく普賢神社の拝殿の裏を見てみると、すぐに階段があり、岩壁に小さなステップが作ってある。鎖もあり登れるようだ。
土足では上れないようで、靴をぬいで恐る恐る登る。
鎖は登るのは簡単だが足元が良く見えないので下るのは難しい。鎖をしっかりとにぎり、確実に降りる、緊張した。上から見るとけっこう高い。
神社の宮司さんかと思ったら、ただの登山者で夫婦で掃除をしながら登っていたようだ。途中でみたお供えもの、火が灯されたロウソクなどもすべてご夫婦がした事のようだ。
さらに石段を登ってゆくと、矢上普賢岳の山頂に出る。
眼下に見えるのは東長崎の町並み、近くに見えている島(写真で左下)は『牧島』だ。空気が澄んでいる日は雲仙や天草半島も見えるそうだ。
薬師如来があると書いてあるので進んでみた。少しの間坂道を下ってゆく。
山頂へもどり行仙岳へ向かう。
矢上普賢岳から行仙岳へは何の困難も無く行ける。
行仙岳山頂で昼めしを食べる。誰も来ないと決めつけて、その場で大胆に調理をはじめてラーメンをすする。
粉を溶かして飲むコーヒーも、山ではけっして悪くはない。
さて、このあと・・下山して帰ったかとおもいきや、実はさらに足を伸ばしてここから北側にある小ピークまで歩いた。道が伸びていたので、ちょっと歩いてみる事にした。
矢印の方向があらぬ方向を向いていたが、間違いではなさそう(?)矢印の指し示す方には踏み跡が見当たらないのだが・・意図が良くわからない道標だった、もしかしてバリエーションなのかな。
何か山頂に表札でもあるかと思ったが、山名を表すものは何もなく、ただ白い板だけが転がっていて気にはなった。
この後、どんぐりを拾いながら、矢上普賢岳までもどり、登ってきた道をテンポ良く下って家に帰ったのだった。思わぬ寄り道が多い山行だったが、なかなか面白く歩けてよかったと思う。