カヤック

2022年05月18日(水)

大村湾、時津町 鷹島を訪ねる(3)

鷹島にはキリスト教にちなんだ殉教碑があると聞いていたので、島の中央の家から東へ徒歩で海岸沿いに進もうとしたのだが竹藪が濃いため断念し、カヤックを漕いですこし東側にある桟橋へ向かう事にした。

GPSの航跡データ(内容は前回と同じ)
上陸地点(鷹島の浜)から東に100m程漕いだ所にある桟橋へ向かった。

桟橋は小舟が接岸出来るようになっている。その脇には小さいが浜がありカヤックで寄せて上陸できた。
この辺りなぜか引いた写真が無い。

桟橋の様子、右側が浜。
カヤックで上陸出来るのは桟橋の傍にある小さい浜。

桟橋へ登るとそこから道が伸びているのが確認できた。

桟橋から、島の中へ向かう道があった。

進んでみると、思っていた以上に『道』だった。

綺麗に整えられた道。どなたかが整備しているように見える。
竹のトンネル。

この竹のトンネルはすごく雰囲気がある。とても良い場所へ来た気がして嬉しくなった。

トンネルを抜けて、伸びる道。

道はハッキリくっきりと伸びている、この先に殉教碑があるに違いない。

途中、右側にあった沼地。
沼地傍に転がる、これはエンジン?の様なもの。

この辺りにも小屋があったのだがなぜか写真が残ってない。

朽ちたハシゴ。
板?
2つ目の沼地。
道。雰囲気あるなあ。

この途中で分岐があったのだが、後で行ってみる事にして・・

道を進むと広い場所へ出た。

えっ?

建てられたばかりの小屋や、畑があった。

無人島だと思っていたので、このような物が有る事が意外に思えた、もしかして誰か住んでるのだろうか?と思い「こんにちはー」とどこに言うでもなく挨拶するが返事は返って来ない、見ると畑は良く耕かされ、作物も実っている。舟で渡ってきて畑としてだけ利用されているのかも知れない。

この畑がある場所から道なりに進んで畑の奥側に道があるのでそこから入る。

さらに奥があるようです。

ここからも道はハッキリとしていて歩きやすい。

進む。

ここは真っ直ぐ進む。

進む。

広場へ着いたようだ。

ああ、ここがそれだ。

これが殉教碑だ。

殉教碑のある広場、雑草が生えてきている。

一年に2度程(6月と10月らしい)キリスト教の信者さんらがやってきて巡礼を兼ねて清掃を行うとの事。その時は皆で草刈りもするのだろう。このようなほとんど誰も訪れる事のない無人島で、ひっそりと長年に渡り執り行われているのだから、とても尊い事の様に思う。

殉教碑の様子。
綺麗な碑。

二代将軍秀忠の詰問を受け背教し迫害者となった大村領主純頼は1617年(元和3年)5月22日大村郡村においてペドロ、マシャド両神父を殺害した。各地で次々に信徒が捕らえられ処刑される中で棄教者の増加を危惧した宣教師ナワレト、エルナンド両神父は公然と宣教を広め多くの信徒に秘跡を授け彼らを励ました。それゆえ長与村で捕らえられ、すでに獄中にあった伝道者レオ田中と共に1617年6月1日この鷹島の地で処刑された。彼らの遺体は先の2人の宣教師の遺骸と共に水深30尋の大村湾に捨てられ今日に至るまでそこに眠っている。
主・キリストに命を捧げてその信仰を証した殉教者を顕彰し、彼らと共に主を称え同じ信仰を告白しつつここにこの碑を建てる。
なおこの碑は1977年6月1日を当日滑石小教区時津地域信徒によって建立されたものを、老朽化のゆえ善意の方々のご寄付を基に時津小教区信徒によって祭壇を付設し再建されたものである。
1995年6月1日
カトリック長崎大司教区・時津教会信徒会

鷹島 「殉教者顕彰之碑」より引用

ちなみに水深30尋とは54.54mとなる。

エルナンド神父は、自分が切られる刃を求めそれに接吻して頭上にいただきそして殉教した。

殉教碑付近ではいくつかの花が見られた、写真の他にスミレの花も2種程あったような気がした。

ルリハコベ
カタバミ?
フデリンドウ?
タチイヌノフグリ?

殉教碑を見た後は道を戻り島を後にする。

これも余談だが、途中分岐があったので登ってみたが行き止まりだった。
舟へ戻ってくる。
今日もパンを食べた。
この季節、鷹島では桜の花も咲いている、他には藤の花も僅かだが見られた。

カヤックを押して海で浮かんだ。正面に見える時津の街並み、島に住んでいた人たちもきっとこんな景色をみていたんだろうな。

時津町
こうやってこの日の漕遊を終了。

なかなか充実した一日であった。

次回は何をして遊ぼうかな。

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